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裁判員制度は時代遅れか

今日の読売新聞朝刊に「欧州では縮小傾向」の見出し。
 
 これは「裁判への国民参加 各国は」と言う記事の見出しである。さらに「量刑にブレ 多い辞退者」、「米、陪審コンサル盛況」など。

一部を引用する
西欧全体で見ると、陪審・参審制度は縮小傾向にある。陪審や参審の人数確保といった制度運用上の難しさに加え、司法専門家の裁きに比べて量刑判断のブレが目立つなど、マイナス要因が浮上してきたからだ。
英国政府は、暴力犯罪以外で審理が長期にわたる裁判や、テロなど治安にかかわる事件は陪審制の適用を除外する方向で手続きを進めている。審理の迅速化、経費削減に加え、誤審のリスクを減らすためだ。
「訴訟社会」米国では、裁判を左右する陪審に対し、あの手この手で戦略を練る「陪審ビジネス」が活発化している。「弁護士や検事は法律や証拠に基づいて判断しますが、陪審員は独自の感覚で判断します。だから我々の助言が必要なのです。」

 裁判員制度は西洋の考え方を真似しようとしたものである。それは西洋が進んでいる。東洋が遅れている。と単純に思い込んでしまっている人が多いからである。
 西洋と東洋の違いは、狩猟文化と農耕文化の違いでしかない。どちらが進んでいるというものでもない。彼らは一人で狩猟するのに対して我らは皆で耕す。その違いなのだ。
 
 彼らは他人との競争を余儀なくされている。我らは自然との共存が必要である。彼らは法を自分達で作らざるを得ない。我らは法は天から与えられる。彼らは自分達で裁かなければならない。我らは神が裁いてくれる。
 
 すなわち、日本人には神の代理人である裁判官という一般常識を持たない人々によって裁かれることで、ある種のあきらめによって判決を受け入れることが出来るのである。これが自分達で裁くとなれば一種のリンチであり恨みが生じて浮かばれない人々が出てくるよ。そんな反省が西欧で出てきているのではないか。

— 記述 m-tezuka at 10:14 pm   pingトラックバック [0]

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